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「効率を追求する組織」と「かけがえのない私」の調和?

仕事組織というものは、特別な事情でもない限り,程度の差こそあれ,相応の流動性は必然的につきまとう。終身雇用の神話も瓦解し始めた昨今,このことは特に重要だ。

もちろん、特定の人間が特別な役割を担い、その人にしかできない仕事をするということは、当然ありうる。だが、その人が抜けてしまった後が問題なのだ。もちろん、それなりの引継ぎ業務は行われるだろう。だけど、その人が担っていた役割を新しい人間が担い、最低限の仕事をしていくためには、事前に引継ぎを意識した業務形態ができあがっていることが望ましいのはいうまでもない。

とはいえ、ここには、近代資本主義の効率を優先しようとする「個の抽象」という側面が濃厚にあらわれているのも確かだ。つまりそれは、労働者を組織を動かすための「一個の歯車」とみなし、その歯車に欠けが生じた場合、代わりの人間をあてがうという「名のないアトム的な個人の集積」という組織観なり人間観である。だがこうした考え方が支配的になるとき、労働者の生きがいや人間らしさが失われてしまう。マルクスが一昔前に指摘していたように。

「かけがえのない私」という側面を、組織を運営する際の歯車としての「私」とどのように調和させるのかが真剣に吟味されねばならない。

業務のマニュアル化等を通じて、特定の個人が抜けても、誰かがその代理を容易に担うことのできる仕組みを作らねばならない一方で、「その人でなければならない」という「かけがえのなさ」をいかに同時に実現しうるのかという試行錯誤は、なかなか容易な作業ではない。

「個の無記名性や匿名性」と「個の固有性や独自性」との両立は、常に難題であり続けるだろうが、この問題を真剣に考え抜こうとするところに、健全な組織、人間関係、個々人の仕事に対する「健全な」プライド(=誇り)なりが芽生えるのではないだろうか.

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